お香をあげる理由

お寺の本堂にただよう香りでなんだか気持ちが落ち着く、そんな経験をしたかたもいることでしょう。香木を多く産出するインドでは、古くからお香が盛んに用いられてきました。

酷暑と湿気によって生じた悪臭を、かぐわしい香り除いてくれたからです。また、嗅いだ人の心身の調子を整え、その場所を清浄にする効果があるとも考えられました。

仏教もその習慣を取り入れ、お香は仏様への供物や、身を清めるためのものとして欠かせないものとなりました。

お香を上げる数は、宗派や地域によって様々です。1本や3本が一般的ですが、分からないときは住職や地域の年長者に聞いてみると良いでしょう。

(季刊誌 光明 第211号より)

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悔しい思いをしないために

真言宗豊山派の季刊誌「光明」第211号、『第12回 悔しい思いをしないために』をご紹介します。

悔しい思いというものは、いつまで尾をひきます。悔しい思いをしないために、次のような考えをしてみてはいかがでしょうか。

●相手の土俵に上がらなくていい

相手の得意な土俵で勝負すれば、負けて悔しい思いをするのは目に見えています。悔しい思いをしないためには、「私はそんな無茶はしたくありませんから、遠慮しておきます」と言って、土俵に上がることをやめ撤退してはいかがでしょう。

●相手がどんな土俵にいるか見極める

私たちが侮辱されたり、バカにされて悔しい思いをするのは、相手の得意(優位)な分野からこちらを誘い、それにまんまと乗ってしまうからです。

損得という土俵で生きている人は、「どうしてそんな損なことをするんだ」とバカにします。こちらも損得で生きているなら悔しい思いをします。しかし、「損得抜きで人のため」という土俵にいる人は、損得の土俵には興味が無いのでそんな土俵にはあがりません。

●日常で受ける侮辱の多くは取るに足らない

同じ土俵で勝負が必要な状況であれば、悔しさをバネに努力をして相手に勝たなくてはならないかもしれません。しかし、私たちが日常で受ける侮辱や屈辱は、自分とは違った土俵にいる人から向けられるものが少なくありません。

「こんなことも知らないの? 有名だよ」と言われたら「そんなことを知っておく義務はないし、私が知らないのだから有名ではない」と返させばいいのです。

「自分にもっと正直になりなよ」と言われたら「自分に正直なだけで、他人に不誠実な人もいる。私はそんな人にはなりたくない」とにっこり笑って放っておけばいいのです。

逆に人をバカにしたくなったら、「私は自分の土俵に相手を無理矢理あがらせようとしているのではないか」と考えてみると、相手から反感を買うことは少なくなるかもしれません。

六波羅密(6つの修行)

此の岸(現実の世界)から彼岸へ至ることを波羅密といい、そのために行う6つの修行が「六波羅密(ろっぱらみつ)」です。六波羅密では次のような修行を行います。

布施(ふせ)

自分の欲をすてて、まわりの人にほどこすこと

持戒(じかい)

きまりを守り、善く正しくいきること

忍辱(にんにく)

決して怒らず、あらゆることを耐え忍ぶこと

精進(しょうじん)

なまけずに、こつこつと努力を続けること

禅定(ぜんじょう)

こころに立つ波をしずめて、澄んだこころを保つこと

智慧(ちえ)

物事を見極め、真実を見抜くこと

 

彼岸は欲や煩悩のない「さとりの世界」です。このさとりの世界に行くために修行する人を菩薩といいます。仏さまだけのことではなく、私たちも菩薩であるのです。

修行と聞くと難しく感じますが、そのきっかけは日常の中に溢れています。

 

季刊 光明 第209より抜粋

 

薬師如来とは

北山漆薬師に祀られております薬師如来について、ご紹介します。

薬師如来は、人々を病気や苦悩から救ってくれる仏さまです。その姿は如来の基本形のとおり、装飾のな非常に質素な姿をしています。薬壺(やっこ)を持っていることが特徴ですが、古い薬師如来像のなかには持たないものもあります。

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また、薬師如来の脇侍(わきじ)としては、向かって右側に日光菩薩、左側に月光菩薩が控えます。加えて、十二神将と呼ばれる将軍の姿をした12体の武神をともに祀ることも多くあります。

薬師如来は、かつて菩薩だった頃に12の誓願をたてます。衆生を悟りに導くことや、病苦を取り除くこと、飢えや渇きから救うことなどです。この誓いにより悟りを開き、如来となりました。経典には、その名前を聞くだけで大きなご利益が得られると説かれています。十二神将も薬叉(やくしゃ)という魔物の一種でしたが、薬師如来の名を聞いて仏教に帰依し「天」の一員となりました。

季刊 光明第209号より引用

孤独と孤立

光明 第204号『孤独と孤立』文:名取芳彦 より抜粋引用

img_hasuいつまでも子どもでいたいと願うネバーランドの住人「ピーターパン」は、自分の影を持て余しています。勝手にどこかへ行かないように、自分の影をウェンディという女の子に縫い付けてもらう場面があります。

私はこの場面から、「影を伴侶にして暮らす」という独り暮らしを表す言葉を思い出します。この言葉は、”独り暮らしでも自分の影が一緒だから大丈夫”という意味もあれば、”寂しさの極み”の表現にも使われます。

孤独はいい

一人静かな時間を過ごすことで、自分の命の中にある幾万、幾億の命のつながりや、社会の含む他から膨大な”おかげ”の中で生きていることをしみじみと感じることができます。独り暮らしは、このような貴重な時間の宝庫と言えるかもしれません。

「どうせ」は孤立の前兆

一方、孤立は自他のつながりが切れた状態で、孤独とは違います。孤立をなくそうと自治体はさまざまな取り組みを行っていますが、「どうせ」が口癖の孤立予備軍の人ほど参加してくれないとのことです。

器量と度胸を見せる

「どうせ、そんな所に行ったって」と敬遠するなら、「どうれ、ひとつ、皆を楽しませてやろうか」と大人の器量を見せるか、「自分がその場にどれだけ対応できるか、自分の器の大きさを計ってみようか」と度胸試しのつもりで参加してみてはいかがでしょうか。

人間が人間を差別してはならない

お大師さまのお言葉に次のようにあります。

「自身と他身とは、一如にして平等なり」
(性霊集)
「一切衆生の性浄法身とは諸仏の身と本より差別なし」
(秘密三昧耶仏戒儀)
「衆生の躰性、諸仏の法界、本来一味にしてすべて差別なし」
(平城天皇灌頂文)

これらのお言葉は、生命あるすべてに仏性(誰でも本来持っている仏としての本性)があり、皆共に成仏できることを説かれたものです。人々は、分け隔てることなく平等であり、本来、皆、仏様になれるということを説かれています。

お釈迦さまもお大師さまも、世界人類の無差別、平等を教示し実施されました。
人間が人間を差別してはならないのです。

(真言宗豊山派の季刊誌「光明」第203号 より)

過去にとらわれない

真言宗豊山派の季刊誌「光明」第203号、『第4回 過去にとらわれない』から記事の一部をご紹介いたします。

過去の出来事にとらわれず、軽やかな心で進んでいくために次のようなことを考えてみてはいかがでしょうか。

●心の中を整理して楽になる
仏教には、自分の心の中を整理して心をおだやかにする瞑想法(内観)があります。この瞑想法を利用することで、起こったことは変えられませんが、それに関連する嫌な感情を変えることができるでしょう。

●過去の感情を今のあなたが変える
現在のあなたが嫌なことがあった時の”過去の自分”に会いに行き、慰めの言葉をかけ、励まします。
これができた時、過去のことは引きずりません。過去の負の感情を、今の自分が変えるのです。

●過去の嫌な感情だけを差しかえる
過去は過ぎ去ってしまうのではなく、何百、何千枚もの紙のように積み重なっていきます。過去の嫌な思い(紙)だけを綺麗な紙に差しかえるのです。