「観法」とは

真言宗豊山派のHP(観法)より引用

「観法」とは、真言密教における瞑想方法のことです。代行的なものには、「 阿字観あじかん 」や「 月輪観がちりんかん 」があります。

その方法には様々な伝承、方法がありますが、目的とするところは、

  • 自己をみつめる
  • 仏を観じる
  • 世界と自分はひとつ

と観じることです。

掛け軸禅宗では壁に向うなどして静かに瞑想しますが、真言宗では掛け軸( 阿字あじ と つき )を本尊として行います。

観法の際には、できるだけ静かな場所と時間を選び、姿勢を正して、安らかに坐ります。呼吸を整えて“ 阿字あじ ”あるいは“ 月輪がちりん ”に意識を集中し、心に留めます。

この状態からこれらを徐々に大きくしていきます(指導者に従って行うものなので、詳しい説明は省略)

真言宗では、「阿字観」や「月輪観」などを実践し、自己を見つめ、仏を観じようとします。

これらの「観法」は真言密教の重要な実践修行となっています。

おつとめ

真言宗豊山派のHPより

「おつとめ」をする時の作法をご紹介します。

おつとめをする時は、必ず手を洗い、口をすすいで身を清め、念珠を左手にし、仏壇の前で姿勢を正しましょう。

 お灯明をともし、線香をつけ、合掌して、ていねいに三度礼拝します。呼吸をととのえて心を落ち着かせ、仏さまを仰ぎ見て、やさしく念珠をすり左腕にかけます。

お坊さん 次にお経の本を両手でいただいてから開きます。お経は一字一句おろそかにせず、心を集中して唱えます。声は高すぎず低すぎず、長い時間唱えていても、のどに負担がかからないよう、同じ速さで読みましょう。息は苦しくなる少し前に、余裕をもって息つぎをします。お経本は、必ず手に持つか机の上に置いて読み、床にじかに置かないようにしましょう。

 お経を唱え終わったら、ふたたび念珠を両手にかけ合掌して、自分の願いを仏さまに心から祈ります。

 おつとめが終わったら、ていねいに三度礼拝し、静かに立ち上がり退室します。

 お灯明を消すことを、忘れないようにしましょう。

やさしい人、やさしくない人

真言宗豊山派の季刊誌「光明」第216号より、『 やさしい人、やさしくない人 』のお話しをご紹介します。

やさしさ 弱肉強食の動物の世界で人間が生き残れたのは、助けあったからだと言われています。いわば、助けあいの心は、人間にとって種の保存のための本能だったのかもしれません。
 しかし、その本能が日常生活の中で発揮されることはあまりありません。周囲を見れば、他人にやさしくない人が・・・残念ながら多いことからも明らかです。

 心おだやかに生きることを目標としている仏教は、相手と自分の共通項に気づくことからやさしさが生まれると分析しています。例えば、知らない者通し がバス待ちで交わす「バスなかなか来ませんね」だったり、エレベーターでたまたま乗り合わせた者通しが交わす「すっかり涼しくなりましたね」などの話題が共通項です。
 こうした共通項を意識することで、相手との心の距離が近くなり、やさしさが発生します。「あなたもそうですか、私もです」といった具合です。
共通項は私たちの周りに佃煮にできるくらいあります。どんな人でも誰かの子どもですし、今日という日を生きているのも一緒。多小なり悩みを抱えているのも共通しているでしょう。
 そうした共通項に気づく感性も仏教が説く知恵の一つです。
ですから、やさしくなりたい、仲間になりたいなら共通項に気づく練習をするか、共通項を作る努力をすればいいのです。同好会に入るのも、一緒に旅行に行き食事を共にするのも、共通項を作って仲良くなる(仲良しのままでいる)ために、とても大切なことなのです。

 見方を変えれば、やさしくない人は共通項に気づいていないか、気づけない人です。「あなたはあなた、私は私」と割りきれば、やさしは発生しません。
 いかがでしょう? ”あの人” があなたにやさしくないのは、そんな理由からなのです。

比べる癖をやめると楽になる

光明第215号より抜粋
 あの人に比べて私はダメ(まだまし)、あの家と比べて家はまだまだ(いいほう)と、他と比べて自分の位置を確認する人は少なくありません。しかし、他と比べて喜んでも、悲しんでも、安心しても、残念ながら、ほとんど役に立ちません。
●他人を傷つけ、己を失う
平穏 私が好きな言葉に「比べて喜ぶと人を傷つける。比べて悲しむと己を失う」があります。
 テストで90点を取った人が80点の人と比べて「勝った」と喜べば、相手は不愉快になるでしょう。つまり、相手を傷つけているのです。また、90点の人が「100点の人に負けた」とガッカリすることもあります。
 先生や審査員は順序をつけますが、本人たちによって、順位はどうでもいいことなのです。これは成績だけでなく、財産や才能などにもいえることでしょう。
 仏教も、自分の心を乱すことを他人と比べずに一つ一つ解決して、心おだやかな境地を目指す教えです。
●昔の自分と今の自分は比べてもいい
 その中でも、比べても良いものは、過去の自分と今の自分。昔の自分はできなかったことができるようになった。若い時は些細なことでイライラしていたのに、年をとったら「そんなものさ」と鷹揚に構えていられるようになった・・・などは、比べてもいいのです。
 もちろん、昔より劣ってしまったこともあるでしょう。年を重ねて気力も体力も記憶力も落ちたとうなだれることもありますが、劣った部分を凌駕して余りあるほど成長したこともあるでしょうから、嘆くには及びません。

木魚のお話し

真言宗豊山派の季刊誌「光明」第213号より、『木魚のお話し』をご紹介します。

葬儀や法事などで目にする木魚。身近な仏具のひとつです。

●木の魚?

木魚の始まりは、魚板(ぎょばん)と呼ばれる魚の形をした木の板だったと言われています。やがて形がかわり、現在のような丸くて中が空洞になりました。魚をモチーフにしているのは、魚は寝ているときでも目を閉じないことから、修行者が寝る間も惜しんで精進するようにという戒めの意味が込められているとのことです。

●なぜ使うの?

お経を唱えるとき、早くなったり遅くなったりしまいがちです。むかし、高野山の僧侶が木魚にあわせてお経を唱えたところ、上手く合うようになりました。それ以来、木魚に合わせてお経を唱えるようになったと言われています。

●いんげんさん

木魚を伝えたのは、江戸時代初期に来日した明の僧・隠元禅師だと言われています。禅師は他にも明朝体という書体や精進料理、煎茶を広めました。インゲン豆も伝えたと言われており、隠元禅師が伝えた豆なのでインゲン豆と名付けられたとか。

●お寺だけじゃない

木魚江戸中期になると、木魚は歌舞伎の効果音として使われるようになりました。今ではオーケストラでも楽器として使用されています。木魚のポクポクは、お寺だけでなく様々なところで活躍しています。

お香をあげる理由

お寺の本堂にただよう香りでなんだか気持ちが落ち着く、そんな経験をしたかたもいることでしょう。香木を多く産出するインドでは、古くからお香が盛んに用いられてきました。

酷暑と湿気によって生じた悪臭を、かぐわしい香り除いてくれたからです。また、嗅いだ人の心身の調子を整え、その場所を清浄にする効果があるとも考えられました。

仏教もその習慣を取り入れ、お香は仏様への供物や、身を清めるためのものとして欠かせないものとなりました。

お香を上げる数は、宗派や地域によって様々です。1本や3本が一般的ですが、分からないときは住職や地域の年長者に聞いてみると良いでしょう。

(季刊誌 光明 第211号より)

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悔しい思いをしないために

真言宗豊山派の季刊誌「光明」第211号、『第12回 悔しい思いをしないために』をご紹介します。

悔しい思いというものは、いつまで尾をひきます。悔しい思いをしないために、次のような考えをしてみてはいかがでしょうか。

●相手の土俵に上がらなくていい

相手の得意な土俵で勝負すれば、負けて悔しい思いをするのは目に見えています。悔しい思いをしないためには、「私はそんな無茶はしたくありませんから、遠慮しておきます」と言って、土俵に上がることをやめ撤退してはいかがでしょう。

●相手がどんな土俵にいるか見極める

私たちが侮辱されたり、バカにされて悔しい思いをするのは、相手の得意(優位)な分野からこちらを誘い、それにまんまと乗ってしまうからです。

損得という土俵で生きている人は、「どうしてそんな損なことをするんだ」とバカにします。こちらも損得で生きているなら悔しい思いをします。しかし、「損得抜きで人のため」という土俵にいる人は、損得の土俵には興味が無いのでそんな土俵にはあがりません。

●日常で受ける侮辱の多くは取るに足らない

同じ土俵で勝負が必要な状況であれば、悔しさをバネに努力をして相手に勝たなくてはならないかもしれません。しかし、私たちが日常で受ける侮辱や屈辱は、自分とは違った土俵にいる人から向けられるものが少なくありません。

「こんなことも知らないの? 有名だよ」と言われたら「そんなことを知っておく義務はないし、私が知らないのだから有名ではない」と返させばいいのです。

「自分にもっと正直になりなよ」と言われたら「自分に正直なだけで、他人に不誠実な人もいる。私はそんな人にはなりたくない」とにっこり笑って放っておけばいいのです。

逆に人をバカにしたくなったら、「私は自分の土俵に相手を無理矢理あがらせようとしているのではないか」と考えてみると、相手から反感を買うことは少なくなるかもしれません。

六波羅密(6つの修行)

此の岸(現実の世界)から彼岸へ至ることを波羅密といい、そのために行う6つの修行が「六波羅密(ろっぱらみつ)」です。六波羅密では次のような修行を行います。

布施(ふせ)

自分の欲をすてて、まわりの人にほどこすこと

持戒(じかい)

きまりを守り、善く正しくいきること

忍辱(にんにく)

決して怒らず、あらゆることを耐え忍ぶこと

精進(しょうじん)

なまけずに、こつこつと努力を続けること

禅定(ぜんじょう)

こころに立つ波をしずめて、澄んだこころを保つこと

智慧(ちえ)

物事を見極め、真実を見抜くこと

 

彼岸は欲や煩悩のない「さとりの世界」です。このさとりの世界に行くために修行する人を菩薩といいます。仏さまだけのことではなく、私たちも菩薩であるのです。

修行と聞くと難しく感じますが、そのきっかけは日常の中に溢れています。

 

季刊 光明 第209より抜粋

 

薬師如来とは

北山漆薬師に祀られております薬師如来について、ご紹介します。

薬師如来は、人々を病気や苦悩から救ってくれる仏さまです。その姿は如来の基本形のとおり、装飾のな非常に質素な姿をしています。薬壺(やっこ)を持っていることが特徴ですが、古い薬師如来像のなかには持たないものもあります。

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また、薬師如来の脇侍(わきじ)としては、向かって右側に日光菩薩、左側に月光菩薩が控えます。加えて、十二神将と呼ばれる将軍の姿をした12体の武神をともに祀ることも多くあります。

薬師如来は、かつて菩薩だった頃に12の誓願をたてます。衆生を悟りに導くことや、病苦を取り除くこと、飢えや渇きから救うことなどです。この誓いにより悟りを開き、如来となりました。経典には、その名前を聞くだけで大きなご利益が得られると説かれています。十二神将も薬叉(やくしゃ)という魔物の一種でしたが、薬師如来の名を聞いて仏教に帰依し「天」の一員となりました。

季刊 光明第209号より引用

孤独と孤立

光明 第204号『孤独と孤立』文:名取芳彦 より抜粋引用

img_hasuいつまでも子どもでいたいと願うネバーランドの住人「ピーターパン」は、自分の影を持て余しています。勝手にどこかへ行かないように、自分の影をウェンディという女の子に縫い付けてもらう場面があります。

私はこの場面から、「影を伴侶にして暮らす」という独り暮らしを表す言葉を思い出します。この言葉は、”独り暮らしでも自分の影が一緒だから大丈夫”という意味もあれば、”寂しさの極み”の表現にも使われます。

孤独はいい

一人静かな時間を過ごすことで、自分の命の中にある幾万、幾億の命のつながりや、社会の含む他から膨大な”おかげ”の中で生きていることをしみじみと感じることができます。独り暮らしは、このような貴重な時間の宝庫と言えるかもしれません。

「どうせ」は孤立の前兆

一方、孤立は自他のつながりが切れた状態で、孤独とは違います。孤立をなくそうと自治体はさまざまな取り組みを行っていますが、「どうせ」が口癖の孤立予備軍の人ほど参加してくれないとのことです。

器量と度胸を見せる

「どうせ、そんな所に行ったって」と敬遠するなら、「どうれ、ひとつ、皆を楽しませてやろうか」と大人の器量を見せるか、「自分がその場にどれだけ対応できるか、自分の器の大きさを計ってみようか」と度胸試しのつもりで参加してみてはいかがでしょうか。